チクセントミハイ「楽しみの社会学」

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チクセントミハイといえば、「フロー体験」というキャッチーなことばが一人歩きしている感がある。「スポーツや遊びが楽しい理由は、フローを体験するからなんだよ」以上。

いやいや… そんな話じゃない。

フローはともかくとして、そのベースにある著者の人間理解と、そこから演繹される社会学的な問題提起を追っていきたい。

出典:チクセントミハイ「楽しみの社会学」、新思索社 (ISBN 4783511853)
原書:Csikszentmihalyi, Mihaly (1975). Beyond Boredom and Anxiety: Experiencing Flow in Work and Play, San Francisco: Jossey-Bass. ISBN 0-87589-261-2

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金銭、権力、名声、それに快楽の追求が支配的な社会にあって、明確な理由もなく、これらすべてを犠牲にしている人々がいるということは驚くべきことである。
なぜ彼らは楽しみの遂行という捉えどころのない経験を得るため、物的報酬を自らすすんで放棄するのであろうか。

「楽しみの社会学」p19

要点(問題意識)

著者の主張の要点は、訳者あとがきで端的に要約されている。
(引用中かっこの部分はわたしが追加)

物質的報酬獲得に強く動機づけられている(*1)ことが、やがては人間性(*2)と資源(*3)とを共に枯渇させてしまうことを危惧し、内発的報酬獲得による楽しさの開発の必要を主張する。

「楽しみの社会学」p305

そしてその説明は、ほとんど「第一章 楽しさと内発的動機づけ」でされている。

(*1)
現在行われている行動の管理は、人間は外発的報酬や外発的処罰に対する恐れによってのみ動機づけられるという暗黙の信念に基づいている。
金銭や地位のような外発的報酬は人間の基本的欲求であるということは常識的な仮説である。

「楽しみの社会学」p20

(*2)
為さねばならないことはそれ自体としては無意味であり、それを正当化する唯一のものは結果として得られる成績や給料支払い小切手にしかすぎないということをやがて学ぶようになる。
それ故に我々は、仕事に退屈と欲求不満を感じ、余暇に罪悪感を感ずる
このようなことがらの生み出す結末の一つは、高度産業国の労働者にみられる根深い疎外感である。

「楽しみの社会学」p21、22

(*3)
外発的報酬はその本性からみて、数に限りがあり高価なものである。
金銭や金銭による物的所有物は、天然資源の浪費と労働の搾取とを必要とする。
人は資源と物理的エネルギーに基礎を置く所有物を、絶えず求めるようになるであろう。
これらの資源や物理的エネルギーが、必要を満たすことにのみ用いられず、主として生活の中での空虚な仕事の補償となる象徴的報酬として用いられる時、浪費が始まる。

外発的報酬のある生活上の役割を累積するほど、楽しさは減少する。
そしてより多くの外発的報酬を必要とするようになる。 

「楽しみの社会学」p22、23

チクセントミハイは、今という時代を覆う暗黙の価値観に警鐘をならし、その価値観を修正しようとしているのだと思う。

日常に当てはめてみると

生活の大部分をきびしい練習に費やす高校球児たち。
歳をとってからでも、習いごと(フラダンスとか)を始めるひとたち。

なにが彼ら(彼女ら)をそうさせているの?
その道で成功して、一山あてようとしているの?

おかねや名声(外発的報酬)のためじゃない。快楽でもない。
答えは簡単だ。ただ端的に、「なんだか楽しいから(内発的報酬)」だ。

問題なのは、こんな簡単なはなしが議論されないことではないか?

世間的には、財産を持つことや、地位が高いことや、よい身なりや暮らしぶりこそが「幸福」の証であり、それを得る手段として、勉強や仕事があるとされる。(世間的な価値観)

仕事は報酬を得るための手段なのだから、つまらなくて当たりまえ。
社員を働かせる秘訣は、成功報酬と失敗の罰則。
幸福感は相対的なものとなり、「ひとよりも多くの財産、高い地位、よい身なりや暮らしぶり」が判断基準となる。

その幸福感を得るため、いやおうなくラットレースに参加させられることになる。

フロー経験について

簡単に図式化してみる。

flow status

自身のスキルに対して、挑戦すべき課題が簡単すぎると、退屈を感じる。
逆に、難しすぎる課題だと、不安や心配を感じる。

自分の持てるスキルと課題の難易度のバランスにより、没頭できる挑戦。
時間を忘れ自我を忘れ、没入する行為。退屈や心配を感ずるすきもない。
何かのための手段ではなく、その経験自体が目的となる。

我々はこの特異でダイナミックな状態(全人的に行為に没入している時に人が感ずる包括的感覚)をフロー(flow)と呼ぶことにする。

「楽しみの社会学」p66

ほかに、日常生活のちょっとした気晴らしを「マイクロフロー」と呼んでいる。
バラの世話をしたり、おしゃべりしたり、コーヒーを入れたりするときにも、「小さな」フローが経験されている。(マイクロフローを剥奪すると、心身ともに問題を生じる。)

鉄の檻

チクセントミハイは、マックス・ウェーバーの論をひきながら、

仕事は伝統的に、苦痛にみちた避けることのできない作業であり、生存や余暇という実りを刈り取るために必要なもの
    ↓
宗教改革によって、苦役と永遠の救済の証しとが、説得力ある形で象徴的に結び合わされた
    ↓
世俗的な成功は、そのまま神による永遠の生命への導きの印となった。

プロテスタントの倫理が現実に貢献したのは、明瞭な手段やフィードバックを備えた一定のルールを人々に与え、それによって信者が自らの生活を秩序化し、退屈と不安とを避けることができたということである。

「楽しみの社会学」p74

勤勉で献身的な人々にとって、苦しい仕事を成し遂げること、それ自体が神聖な目標となる。

西欧の歴史は、さまざまな形態の意識的、無意識的な社会的、政治的搾取のもとで、仕事が数多くの人々にとって苦役を意味するものとなっていることの明白な証明となる。
本来は多くの「遊戯者」の、創造的で自発的な活動であった資本家の生産過程は、ほんのわずかの特権的行為者しか楽しさの機会を見出し得ない、ウェーバーのいう「鉄の檻」になってしまった。

「楽しみの社会学」p279

楽しさはうさんくさいものであり、仕事は神聖なものである。
このように考える人々は、彼らが行なっている真剣な仕事は彼らにとって、どのような形式の余暇活動よりも楽しいものであるということを承認することはもちろん、認識することすら非常に困難である。

こうした文化発展の最後に現われる「末人たち」(letzte Menschen)にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。
「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」と。

出典:マックス ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、岩波文庫

でも、仕事の中にも、自分の能力に見合った挑戦の機会があり、それに向かってとりくむ中で楽しみを実感することができるし、むしろ「楽しむべき」なのではないか?

「楽しむ」というと誤解を生むし、「楽しい」という自覚されるかどうかもわからない。
でも、挑戦の中で、「意義や充実感を感じること」は十分できるはず。

報酬や、その結果の富、社会的ステータスを獲得することを唯一の目的とせず、日々の生活の中で意義や充実感が感じられる世界の方が、もっと良い世界なのではないか?

子供達の成長環境

楽しさというものに対して、理解が深まることによって、子供達の成長にとって以下のようなものは問題であることが理解されてくる。

  1. 何の具体的な成果をももたらさない努力は、時間の浪費という烙印を押され、 子供は外発的報酬をもたらす課業に精出すようにのみ奨励される。
  2. リトル·リーグやピアノのレッスンは自分の技能に対する自信を子供に与えるためにではなく、これらの技能を観衆や聴衆にひけらかすために組織される。
  3. 楽しさに対する我々の一般的な無知の故に、我々は彼らの成長を支える行為への挑戦の機会に子供たちが合致しているか否かを、十分時間をかけて確かめようとしない。

すてきなフレーズ

いいな、と思った記述を2つばかりメモしておく。

勝つことに思いわずらうサムライは、迷いのない敵に負ける。

「楽しみの社会学」p74

勝敗などは忘れて、ただそのプレイに没入することが、よい結果につながる。
勝負師には響くことば。

「結果にではなく、行ないの中に動機を置かねばならない。
 行為ヘの動機が報酬に対する期待に置かれるような人間であってはならない。」

「楽しみの社会学」p82

「バガヴァッド・ギータ」の一節。
仕事にしても、給料がいいとか悪いとか言ってないで、仕事そのものを楽しめればいいのにね。

おわりに

本書の原題 Beyond Boredom and Anxiety はB.F.スキナーの Beyond Freedom and Dignity, Bantam, 1972 のパロディではないかと思われる。

「楽しみの社会学」p305、訳者あとがき

パロディというより、宣戦布告だと思う。
スキナーらの行動心理学が、世の中を覆う「暗黙の信念」普及の一翼をになっているのだから。

で、戦況はどうであったか?
チクセントミハイの問題提起は、世の中を変えるようなムーブメントにはなっていない。
いちど出来上がった社会システムは、そんなにヤワじゃないのだ。

でも、少しづつだけど、変わりつつあるような気もする。
隊列から距離をとる人たちが少しづつ増えることで、いずれ世の中は変わっていくかもしれないと思いたい。

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